2015年05月04日

「方便により悟る」

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対面鑑定をしていると、その中で自分自身でも思いも依らないような言葉が、自動的に飛び出してくることが良くありますグッド(上向き矢印)

まるで何かに憑かれたようなというのも変ですが、本当に相手のことを考えて集中することによって“集合意識”みたいなものから降りてくるというか、“潜在意識”の広大な空間からやって来るのでしょうか?

「なるほど、そういくことか!」と自分で自分の言葉に感心してしまうことも、しばしばですひらめき


先日、けやきウォーク前橋での鑑定に、年に1、2度訪れてくれる青年がやって来てくれました。

彼に関しては当初、いわゆる“冬の運気”でかなり状況として厳しい感じでしたが、今年は流年が「食神」となり、ようやく好調な運気に入ってきたと言えるでしょうグッド(上向き矢印)

実際、当初はニートっぽい生活でしたが、昨年辺りから、本人の希望とはちょっと違う職種で非正規での仕事ですが、毎日通って大変ながらも続けているそうです。


「どんどん、良くなってきているんじゃない?それに、今年は女子とのいい出逢いがあるかもしれないよ。」と私。

「いつ頃ですか?」と彼。

「そうだなぁ、9〜11月位かなぁ。」

「どういう彼女と出会えますか?」

「そうだなぁ、○○君の日支が“偏財”だから、大らかで優しい感じの女子だと思うよ。ちょっと、ぽっちゃり系かもしれないけど。そういう娘、好きでしょ?」

「ええ、まあ・・・黒ハート

「なんか、矢継ぎ早にいろいろ聞いてくるけど、そういうような兆候はない?」

「いいえ、全く。家と職場を往復しているだけですから・・・。」

「ぎゃふんふらふら あのね、好運気の波というのは、ただ待っていれば自動的に乗れる類のものじゃないんだよね。例えばね・・・」

そして、私はこのようなことを語りだしました。

「例えば、それはサーフィンを趣味にしている人がいて、今日も海に出掛けましたと。そして、準備運動の後、サーフボードを抱えておもむろに海に入っていきましたるんるん

結構、今日は良い波が来ているようです。しかし、そのサーファーはボードに掴まったまま、波間をぷかぷか漂っているだけでしたと。

どう?これでそのサーファーは楽しめると思うかい?

いい波が来ている沖合いまで出て行って、パドリングしつつ波を捕まえて、その上でボードの上に立ってこそ、そのサーファーはスリルというか高揚感というか、非日常的な感覚を楽しむことが出来るんだよねグッド(上向き矢印)

熟達したサーファーだと、徐々にそのサーフボードの感覚が薄まってきて、海の上にそのまま立っているように感じられるんだって。

そのうちに空に溶け込む感覚がするようになり、最終的には太陽と一体になるという体感も得られるそうだよ。

だからね、好運気に入ったとしても待ってるだけじゃ、ダメなんだよね。」

話し終わって私は、「なるほどこれは良い譬えだな」と自分自身で関心してしまいましたひらめき

もちろん私にはサーフィンの経験はありません。ちょっとだけ、スケボーをやったことがあるくらいですわーい(嬉しい顔)


実際、鑑定に見えられる定年間近のお客様で、「今までの人生、全然いいことがなかった」と言われる方も間々おられるのですが、“大運”の流れを看てみますと既に好運気の時期は過ぎていたりしますバッド(下向き矢印)

そういう方は多分、考えすぎて行動に移せなかったのか、あるいは「まだまだ、これよりもいい波が来るさ」と安易な考えに流されてしまったのかもしれません。

私は敢えてそれを口には出しませんが、その場合、“大運”が悪いなりにも“流年”の良さに希望を見出して行くしかありません。

もっと早く、四柱推命の門を叩いて頂き、ご自身の運命の流れというものを知ってもらえたら良かったのにと思わずにはいられません。

前回の記事でも書いた、「知命立命」の話ですね。


また、その他にも彼が「すぐに飽きてしまって一つのことができず、いろいろなことに手を出してしまうんですよね。」というので、“虫眼鏡の実験”の譬えもしました。

これは、小学校でよくやるレンズによって日光の力を一点に集中すれば、紙を焦がしてしまう程のパワーが得られるんだという実験です晴れ

まさに、物事を成し遂げるには、一点突破するだけの“集中力”が必要なんだということを意味していると思います。


これらの“譬え”は一種の“方便(ほうべん)”と言えるのではないかと思ったりもします。

“方便”とは、本来、仏教の教えや実践が、むずかしくて一般の人々に理解しがたく、実行しがたいのを、真実の教えに至る前段階として、教化される側の宗教的能力に応じて説かれる教えのことを言います。

だから、一見、真実の教えとは無関係のような“譬え話”がされることがありますが、それはあくまでも、目的に対して利用される便宜的な手段、過渡的な方法でしかない訳です。

ですので後世、俗語に転化し、「嘘(うそ)も方便」などと言われることとなりました。


仏典では、“智慧あるものは方便によって悟る”とも言われていますグッド(上向き矢印)
“智慧者”は“方便”によって、その根底に隠された“真理”をも理解することができるということですね。

是非、あなたも智慧者であっていただきたいものですわーい(嬉しい顔)

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posted by 田島明徳 at 23:05| Comment(0) | 日記
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